私がやったのはファミコン版のドラクエ3で、
当時、小学生低学年だった私は、遊び人が賢者に転職できることを疑問に思っていました。
その疑問に答えは出ず、ゲームもクリアして忘れていました。
しかし、リメイクのドラクエ3が発売されたころ、「そういえば、遊び人が賢者になれたんだっけ」と思い出しました。
大人になって、経験や知識を多少なりとも得た今、この疑問に対する自分なりの考察ができるようにおもいます。
まずは、魔法使いと賢者について考えます。
彼らの生き方に無駄はありません。
目標とするものがあり、そこに辿り着くための最短距離が他人に倣う(ならう)ことなのです。
回り道はしません。
魔法使いや僧侶が、
悟りの書を使わなければ賢者になれないのは、
彼らが教科書から学び、先人の真似を上手にする技術を磨く人たちだからです。
すでに誰かに発見された知識や技術をいかに覚え使いこなすか、
他人と同じ事を、いかに他人より正確にたくさんこなすかが彼らの価値基準だからです。
彼らが悟りの境地に達するとすれば、すでに悟りの境地にあるものの教えを請うという方法によるでしょう。
遊び人は、生き方の教科書を持たず、他人に教えを請わず、一見、無駄なことばかりします。
行動に一貫性がありません。その結果、得られる知識・経験も体系だった一貫したものではなく、断片的です。
何事も、自分なりの仮説に基づき、試した結果・経験から学ぶので、しなくていい失敗もします。
何をやっても、なかなか一定の水準まで成果があがりません。
しかし、他人がやらないことを実行するので、新しい発見をします。
他人にはない経験、知識を自分の中に蓄えます。
失敗を恐れず、ルールや理論にがんじがらめになっていないので、
行動に制約がない。
自分のカラーを自分で決めず、常にあるがままである。考え方も融通無碍(ゆうずうむげ)である。
進化する遊び人は、生きる目的は持っていないが、好奇心がないわけではない。
人生の地図も持たず、あてもなく漂流しながら生きていると、
ある日、それまで食い散らかして、自分の中に散らかった、断片的で何の関連も無いように思える知識や経験が
組み合わさり、結びつき、新たな発見を生む。
大器晩成とはそういうことのように思う。
A~Cという体系、D~Gという体系、H~Kという体系、L~Pという体系、O~Sという体系、T~Uという体系、V~Zという体系
自分のフィールドを決めて狭く深く生きる人たちは、
自分のフィールドの外には無頓着で、そんな分野があることは知らないし、
もしその存在を聞いたことがあったとしても、A・G・K・P・S・U・Zを結ぶ方法を知ることはないだろう。
人間が同じ毎日を繰り返すだけの動物から進化し、現在の叡智を手に入れたのは、
それまで、常識とされてきたことを繰り返すのをやめ、周りからは無駄に見える行為をやってみる人がいたからだ。
遊びの中から新たな発見が生まれる。
成長の効率は悪いが、やったことが無駄になるリスクを恐れる人には到達できない境地まで、
うまくいけば最終的には、辿り着く。
それは、あたたかく見守ってくれる人や環境、人や出来事との巡り合わせなどの不確定要素も多分に関係する。
賢者と愚か者は紙一重。
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