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「自分探し」についての考察
FF全般より投稿者まめぞーさん |
物語の世界の登場人物に共感し、その中に自分を投影させるということは
我々にとって、極めて自然なことである
TVドラマ、小説、漫画、ゲーム、あらゆる物の中に、我々は「私自身」を
見つけ出すことができる
彼らは、我々が選択しうる可能性の中の1つの事象を選び出した
もう一人の「私」であり、現在という時間軸上にいたるまでに
成し得なかった「私」の可能性が具現化した存在となるのだ
故に、我々は、媒体を通じて、登場人物たちに共感し、
時に感動し、時に悲しみ、あるいは、怒りによって涙を流したりするのである
さて、ここに一つの媒体がある、「ファイナルファンタジーシリーズ」と呼ばれる
ゲームソフトだ
皆さんの中には、全作品、全てやり遂げたという方もいらっしゃると思う
残念ながら、私は3~8までである
この中で、作品の内容ががらりと変わっていったことに、みなさんは
お気づきであろうか?
そう、FF6からなのである
「6」はまだ、そこまで顕著には現れてはいないが、「PS」に移行した「7」からは
それが、はっきりと現れてくる
「自分探し」、このことが大きなテーマとして登場してくるのである
何故であろうか?
一つには、社会的な問題である
街では、哲学、心理学の本が飛ぶように売れていた
「ソフィーの世界」という哲学書を皮切りに、あらゆる出版社から、いろいろな本が発売され
これほどまでに、現代人は「個の確立」というものが行われていなかったのかと驚きを禁じえなかった
「どこかにもう一人の私が存在する、今のこの意識上に出ているのは別の誰かであり、
現実の空間を認識するためだけに存在しているのだ」
そういって、別の「私」を探し出そうとするのである
確固としたイデオロギーや、宗教を持たない我々日本人にとって、アイデンティティーを確立させるのは
容易なことではない。
しかし、まるで新しいファッションのように自分自身を見つけていくというのは
一種、異常な光景であった
二重人格や、精神的な病気が「かっこいいもの」として捉えられ、現代人、特に若者の間で
急速に広まっていた時代であったのだ
そんな中、発売された「7」は、明らかにその現代の風潮に沿うものであった
主人公「クラウド」に、我々はいったい何を見つけ出せばよかったのだ?
開発陣の試みは一体なんであったのだろうか?
結局、アイデンティティーを確立して(つまりは2重3重であった自分自身を統合して)、ハッピーエンド?
それだったら、あれほどまでに病的に世界を描ききってみせる必要はなかった
「FF」ではないが、「ゼノギアス」も然りである
それは、「8」の「スコール」にまで継承された
あれほどまでに病的ではないが、結局「無口」という人格を演じて、
本当の自分は別のところにあるという様は、「7」、「ゼノギアス」、と根底を流れるものは一緒である
知識をファッションとして捉え、何か理解しがたいものが「かっこいいもの」とされていた
ポストモダニスティックな悪癖がここでも発現しているのである
これに対し、7以前の作品は単純であった、もうすでに一つの個を確立した登場人物たちが、悩み、傷つき
喜ぶ様が描かれていたのである
「セッツァー」を例にあげてみよう
彼は、ギャンブル好き、スピードを感じることに生きがいを感じる男として書かれていた
魂が削れるような、生と死の間、ギリギリの緊張感の中、生きることに充足を得るのである
そして、その通りに生きた
「帝国との命がけのギャンブル、俺の命、そっくりチップにしてお前らに賭けるぜ!」
この言葉は、かれの人生観を端的に表現しているといえよう
エンディングまで、彼は己の生き方を貫き通したのだ
ティナが力を失い落ちていく、それを助けるために飛空挺を駆る彼の心は、おそらく
無限に純真であったと想像できる
彼は、あの瞬間、ティナを助けるということ、飛空挺のスピード、自分の操縦の技術、様々なものへの
賭けに出たのだ
そして、その自分の、いや仲間の命をも張った賭けには勝った
そして出てきた言葉で「いっただろう?世界最速の船だって」であったのだ
その彼の心境は、想像し得ない、なぜならそれは究極であり、一つの到達点であるからだ
「8」で唯一の救いであったのは「ラグナ」の存在である
「スコール」とは対照的に彼は、「個を確立させている存在」として描かれていた
彼の生きる様は、私がいちいち説明しなくても、良いであろう
我々は、物語を読む、物語は歴史であり、指標である
現代社会はでは、個を確立させることが難しい、それ故に単純な物語が
必要となるのではないだろうか?
もうすでに、勘の良いみなさんならお気づきとは思うが
私は、単に「ラグナ(いや、ラグナ様とよばせていただこう)かっこい~」
「セッツァーかっこいい~」ということ、
「FF7,8ってあんまりおもろくなかったな」ということを書きたかっただけである
さらに述べさせていただくと、セッツァーの項に行数を割いたのは
自分自身のギャンブル好きと、オートバイでスピードを出すことを
彼自身の生き方(普遍的なもの)に置き換えて、「言い訳」をしているにすぎない
これこそが、ポストモダニズムが生んだ悪癖である(たぶんね、あんまり理解してないんよ(^^;)
レトリックを凝らして、難しい言葉使ったら、小難しいようなこと書いてるようにみえるでしょ?(爆)
たまに、こんなこと考えるとおもろいかなって思っただけ
哲学なんて、「あなたが生きている」、それだけで、立派な分厚い哲学書より
おもろいもんやから(笑)
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